只今昭和三十九年十一月一九日夜の御理解を頂きます
    よくこんなことが言われます、だいたい金光様の信心とはどういう信心ですかと、例えば問われてながら、そうですな話で説明するよりも、とにかく私を見てください、私一家をご覧下さいと言われるようにならなければならないと言ったようなことが、私達が信心しよう以前の私、信心を頂くようになってからの私同時に私の家庭、とにかくもうぎりぎりの証拠、これを一つ見て下さいと、言えれるようにならなければならないとこう言われております。確かにこうです。私、今日ご神前に座ったら、あのげんの証拠をたくさん影干しにしてあるところを頂くんですよ。で、今日の御理解を頂いております。げんの証拠は昔から腹のはら一切に、まあー、効く薬とされておりますね。
    腹一切と、私はいわゆる心いっさいということだと、こう私は今日そんな風に感じたね。心にどういう、例えば、病気があってもどう言う心の不具者であっても、どう言う心にしこりがあり、苦しみがあってもです。げんよりもしよう。、とにかく、お参りをしてお話を頂いて、自分の心がたすかる。それが一家中の助かりになり。そして、あのことが段々成就していく、このことも段々いわば、人の目に付くように成就して行くというような風にです。
    お陰を頂いてげんよりも証拠と、いうことよりも、語ることよりもこれを見て下さいと、私は、ね、これが一番だと思うんです。椛目の場合でも同じこと、とにかく、いうておりましても、例え、そんならあちらに良い信者が育つと、ね、あそこで五年も信心の稽古をしたっていう人達は、もう、とにかく、いわば、コロっとしとるともう十年も信心するなら、もうひとり一人がお取次の出けるくらいになられると。今日浅野さんが参って見えてから、先生ほんとにもうちよいと大変な。まあー、言いかたですけど、思いますとあのミドリ会の方達はそういうところに焦点をおかなければならんのじゃないかと思います。例えば、まあー、良い意味か悪い意味か知らんけど、椛目の魔性といわれるくらいに、まあー、いうなら椛目で一生懸命信心をさせて頂き、また、その会はとくにチームワークの取れた信心をさせて頂いておる、その一人ひとりがです。ほんとに女ながらも一任一役を出来るようなお陰を頂かなければならないということと同じにです。ほんとに、そこに難儀な、例えば、後進の信心の道を求めてくる方たちがあるならば、その方達に自分の体験を語ったらです。この人が助かられると。もう、私はいつも、それを念願にしておるんですけど、親先生がお一人で大変であんなさるだろう、もう、とにかく、ここでお参りさせて頂きよるとどのくらいでも、どのお届けでもです。ほんとに、あれが先生一人ひとり先生の力に縋っておるのかと思うたら何かお手伝いできんだろうかと言う気がいたしますと、こうですからもうできるだけ、例えば、先生の手をわずわせんで済むようなお陰を頂けるなら、そう手になり、いわば足になりたいと言うお届けでした。
     昨日もある方がたいへん難儀、悩みのもとにお参りをして、今日は夕べ一時頃から久留米から歩いて見えたんですね。そして、ほんとに、死ぬか生きるかちいうごたる、そのやっぱり自分としては難儀なのです。とにかく、助かりたいけれども、この人の場合そういう難儀を感じると、必ず、椛目に向かってこられることなんですね。他に行かれんです。それで、ここに歩いて届かれた時にはまだつまっておったらしいですけど、まあー、そういう切羽つまった難儀な問題を持ってきてですたい。丁度十時か十一時回りましたでしょうか。野口さんが参って見えたのは。ですから、野口さん、あなたのお話頂きよったら、今日、御理解を繰り返しく頂きよったら、ほんとに心がすっきりして、もう帰らんはずと思いよった、家に一辺帰ったみたいと思いますと、なら野口さん一緒に帰らさせて頂こうというて、そのバスの中に乗らせて頂いた。バスの中でも、いわば、野口さんの体験談を一生懸命聞きよるうちに、野口さん、方の方へ言ってしもうた。まあー、今夜はゆっくりしてから、今夜は月例祭でもありますけん、お家の方は電話なん掛けるから。そして、また一緒に月例祭にお参りしましょうやといいよりましたけど、そうばってん、今日はお陰頂きましたと、このまま、私、帰っても大丈夫だというて帰られたと。そして、また夕べもお月例祭に、その方参って見えておって。その野口さんに言われんです。もう昨日、野口さん、貴方のお陰で助かりましたとこう言われたち。そう言うときに、そのこりや、慢心かもしれませんけれども、親先生のお手伝いができよるという気持ちでです。確かに、信心は通じるとこを通るだけじゃいけません。通るとこを信心で通らなきやだめですと、今日言うておりました。いくら苦しいとこを何辺ば十辺通ったっちゃ。通っただけじゃだめだと、その苦しいとこを信心で通らせて頂いておかなければだめだと、なるほどと、私は思うたんです。通るとこ通っとかんな、なんて言われても通るとこ通っただけじゃだめね。通るとこをです。いわば、信心で通らせて頂いておるから、私のような話でも、いわば、心が甦ったと喜んでくださり、助かったと言うてよろこんでくださると、そのぜんじつも、先生あのそげんでございましたもんね、と言うてから、話される丁度、善導寺のお月例際の日でございました。十七日、福島さんがお参りして見えた、?長の奥さんがもう、とにかく、私が信心になろうと思いましても、家内が家で悔やみまわりますから、もうどうも自分の信心がいわば、足手まといになってから、また、家内に引きずり落されてしまいますというて。その福島さんが朝の御祈念に参ってきてから、悔やまれるんです。ご主人のほうがどうも夫婦揃うて信心せにやいけんね。例えば、こう言う一つの難儀に直面しておるのであるから、なるほど、人間心を起こしたらやっぱり悔やまることもあろうと、やっぱりあんたに不平不足言うごとあろうと、もうとにかく、参らせなさい。そして、ここで御理解でも頂いたらというておりましたら、その日、私、善導寺にお参りする前に、ここに参って見えられた。御理解を頂かれるうちに、段々心が落ち着いてきた。善導寺までお供えさせて頂くときに、野口さんも参り合わせておった。まあー、私も善導寺に一緒にお陰頂こうというて、善導寺までお陰を頂かせてもらって、帰りは善導寺で別れた。私ともは高芝さんの車で帰らせてもらった。
    そん時の話を野口さんがされるんですね。先生ほんとにもう行き戻り、私とも歩いてまいりましたから、善導寺までもう福島さんとお話さして頂いて、いわゆる私の、まあー、体験を話させて頂いたら、もうほんとに野口さん、今日は元気出ましたと喜ばれる。そうです、帰ってからほんとに悔やむもんじゃありませんの、悔やみ、悔やむだけそがしこ損のいきますわけですからねち言われるわけです。
    そして、善導寺の教会から三叉路とこに行くところにです、大きな外車のような車が、しかも、いかめしい運転者が載っておられるそうでうもん、そして、私、久留米のほうに行くけん、乗せてあげましょうち。もうびっくりしてから、だいだいあしたなんしょんなさあーとですかち、いうたげねねんか消防署の何かよか人じつたそうですたい。なんかこうカブトゲなとをかぶとんなそうですたいね。そんでびっくりしてから、いや、そりやびっくりするごたありません。どうぞ、お乗り下さいちいうてから、二人のせられたそうです。そんでまた、野口さんとこまで一緒に行って。そして、また、あちらでこんこんと野口さんの話を頂いてからもうほんとにそげなこと、前々から聞いちゃおったばってんですね。やっぱり自分のこと、苦しいことになってくると、もうお父さんに私悔やむばかり、悔やむもんじゃけん、お陰を頂ききらんと言って帰られた。
    昨日の朝ですね。あの福島さんが参って見えてからです、昨日はもう家内が帰ってから二人見るごとお陰頂いてから、もうほんとにお陰を頂きましたと、福島さんも言うておられる。いわば、奥さんも言うておられる。ここにまた、そういう働きというものがあるんですね。やはり、丁度夕べお月例祭に中村さんが参ってましたでしょうが、おばあちゃんの方がそいで福島さんも一緒にお参りして帰る道々です。親先生に昨日の朝、お届けさせて頂いたら、あのご心眼に親先生が終わりという字を頂いてくださったと終わりという字は糸辺に冬が書いてある、糸辺は神様とのつながりということであろう、冬は今、福島さん、あんたかたふゆばいというとこばいと、親先生おっしゃった。だから、これは冬は暖っちゅうことない、やっぱり寒い修行。これはお陰を頂かしてもらうてから、次の春を待たなきゃならん。もうおかげも間近ばいとおっしゃったとこう中村さんに言われるわけなんです。ほいて、そのほんとにこげな苦労がのうなったら、もうこげな修行がのうなったら、ほんとに、そりやよかろうのちおもいますがのち、その帰りがけ中村さんが良いお取次が出けられたなしと、そりや今朝から、そのことを言われますから、とても、私共そげなお取次ぎでけんじゃたろうち、いうてから中村さんに話しました。そのミドリ会の方達が一人ひとりお取次でけられておるということなんです。そうばってんのう福島さんあの親先生がいつもおっしゃるように、信心は一生が修行じゃとおっしゃるだから、この修行からはよ抜け出ろう、この苦しみからはよ抜けでそうじゃ、いつまってん抜け出させんですばいの。明日、昨日、からいよるじゃんのもう椛目にお参りさせて頂き、野口さん方行ってからもう心がすきっと、私はしたち、喜びよるじゃないの、もうそれがすでに修行がなくなっとるとじゃないので、はあー、ちたまがられたち。福島さんが今まではほんとに自分の心の中が足がせ、手がせ、足がせというごたる苦しみじったち。それがお話頂いてからほんとに、お父さんが言うとが、ほんなこっと分かったち、明日、いいよるじゃないの。もうそれがすでに彼女の心の冬がもういわば、春になっていきよる証拠じゃないの。     私は今日、その中村さんのお話聞きながらね。私、ほんとに思うた、とても、なかむらさん、私でんそげなたとえ福島さんの場合はです。現在、難儀を知っておりますから、そげな目に言うたってとても受け取りきるまい、こう思うからそげなお取り次ぎ、私でも出来んとに、あんたよう、お取次がでけたねと、今日言うたことですね。ほんとにです。やはり中村さんあたりが通るとこを信心で通っておるから。それが言えるんです、いくら難儀を通り超えた、何年信心しとります、何十年信心しとりますというてもです。それではほんなこつじゃないです。いわば真実どんより、証拠と、例えば、そんなら中村さんにしてしかりでしょうが、野口さんにしてしかりでしょうが、とにかく、私を見てください。私の今見てくださいでしょうがね。中村さんの場合でも一番はじめ、私の出会いの時分にや。それこそ、風呂敷包み、このくらいなゲタを包んで売り歩きよんなさった時代、よその家に入ってから追出しをくらってもいい、住む家がないというくらいに困っておられた中村さんは、野口さんにおいてもしかり一家中の者が路頭に立たねばならないところをお陰を頂いて、現在、それこそ、枯木に花と言うか、夢のようなおかげを頂いておられると言うこと。いわゆる、どんよりも証拠と言う、お陰を見せて話すからこの人が分かるのですよ。
    今日、午前中でしたか、北野の原さんとこお娘、恵子さんが孝子さんを連ちから、お礼い参拝して参りました。先生、前日からご心配掛けましたち。その前の話したご存知でしょう。夫婦けんかして出てきておりましたから、先生、ほんとに今度のことについて、いろいろお陰を頂きましたち。第一のお陰はお母さんがお陰受けられたことでございますと言うて、昨日もお母さんが恵子さん帰ってくれたということをすぐお礼いに出て見えた。ほんとに親先生にがあー、おっしゃって頂いて、私がほんとに愛子ば、恵子さんが帰ってもらわんなら愛子ば呼び寄せよなんて申し上げましたけども。親先生から言われて見りや、あさましいその心であったということに気づかしてもらって、ほんとにこつ、恵子さんが明日でもあさってでもいつでもよか帰ってきてもらわば、ほんとに、帰ってきてくれたなーち。気持ちでいわば、受け入れ状態ば作っておくつもりで帰らして頂きましたら、さっそく、あくる日恵子さんが帰ってきてくれてから、お母さん、ほんとにお世話でございましたろうと、すみませんでしたち。先生、もう、私はこげんうれしいことはございませんでしたちから。昨日、その涙ながらにお礼のお届けがあったんです。そして、そのお届けが済んでから、最近はですね。何故、その自分が困っておられるかと言うと胆のうを手術せんならんと医者から今言われておるわけなんです。ところが、どうしても、その手術だけはしようごとなかて言うわけなんです。レントゲンに二日も掛かったけども、二回ともやはり、これはこげなカタマリかなんかでしょう。これを切って出さなければいけないといわれれてから、もうシワシワとなってから。
    最近、上野のおばあさんやせておられるくらいですもん、そんで先生、今日、帰りがけ、また病院にいって、まあー、一辺たしためめいただいちから、腹きめんならんからって言われるから、私申しました。上野さん、あんたが今日のごたる喜びなら、もうお陰を頂いたがと私申しましたね。自分の嫁ごのことでです、家庭のもののためにです。涙を流して、ほんとにうれしい、有難いと言うようなそげなき持ちなら、上野さん、もうあんたお陰を頂いてとるばいち。私そげんもうしました。そしたらですね、今日恵子さんがきてからお届け致しますのに三辺レントゲン掛かったそうです。あんまり不思議だから、せんせんなかったそうです。こりやあしたどうもあんなさらんち、言うごとなったそうですね。いわゆる、げんよりも証拠でしょうが、そう言う例えば、特別な神様の働きというものが、ほんとに嘘のような働きがですたい頂けるということの。たとえばげんより証拠ね。それで、恵子さんがほんとに今度の私どんが夫婦けんかも考えて見りや、やはり、神愛の現われでございましたち。まあー、そのお届けするんですね、ほんとにそうじゃったねち。もうほんとに信心がなかならどうじゃろか問題が問題を生んで大変な取り返しのつかんごたる問題、いや、取り返しのつくごとなっとったちゃ。それには大変な心配やか感情やら。いわば、そのためにはそんやらせにやかならんやったところをね。
    お陰を頂いて助かったとこういうわけなんです。お陰を頂いてどうでも一つ椛目にあんた達、毎日、参りよんなさるがと言われたら、そうですね、一口にこうといわれんけども、とにかく、一辺お参りしてみなさい。げんよりも証拠のお陰を受けられますと言うこと同じに信心させて頂いて、教が身に付いてきますと、とにかく、私ば見てください。私の家庭を見て下さいともう言うようも語るよりも、これが一番。いわば、証明、証拠、でしょうがと言えれるようなね。お陰を頂くためにも本気で信心に焦点をおかなければいけない。なるほど、今日一日の御理解をです。今晩なら今晩の御理解を、明日に延長して明日にこの教えを行じぬかして頂らきゃ。確かに、げんよりも証拠、こう言うお陰を頂けるというようなお陰をです。日々頂いていったらね、まあー、私を見てください、私の家を見て下さいと言ったようなお陰に私はなってくると思うんです。
 ご神前に座ったらとにかく、影干しに下いっぱいのげんのしょうこ頂いてね。もう自然と申しますか、自然が、あー、その人間の手をわずらわせず自然が腹薬を作ってくださるね。朝晩の御理解でもそうでしょう、今日はだれが参ってきちょるけん。誰へ一丁分子ごたるご理解ばしょう、今朝はだれが参ってきちょるけん、あれがいっちよんお陰頂きらんけん、あれいっちよ、あてつけたごたあるご理解しようというようなことじゃないでしょうが。椛目の場合、だれがまいってきとってもおらんでも、私がご神前で頂いたこと、そのまま伝えるんですから、これが一番の験の証拠的なね。そればありがたくいただけば腹薬になろうと私は思うんです。おかげ頂き(?)